Hoshi

November 17, 2013

 「表現」という言葉から考える。私は、「表現」は「表現されている」、または「表現されてしまっている」という状態でしか成り立たないのではないかと思う。「表現している」と言い切る事は、ただがむしゃらに意見を突き通しているような状態なのではないだろうか。自分自身の意図は作品の内面にしか向かわない。もちろん内面に向かうものの差で外面にも差が現れるのであるが、それこそが「表現されている」「表現されてしまっている」という状態なのではないだろうか。

 「表現したい事」「示したい状態」が存在する上で、ある文脈が形成されたものをコンセプチュアルアートであるとし、私がその2つの言葉から自分の作品について考えてみると、特に「表現したい事」は見当たらない。そして、厳密に「示したい状態」があるわけでもない。そういった積極的な意思というものがない場合、何があるのか。そこには前述したような「表現」があるだけなのではないか。

 それは私自身がドローイングに用いる形や色を選ぶ段階でまず起こっている。1つ1つの形や色を選ぶ際に、その「表現されている」状態から私自身が影響を受ける。その私自身が影響を受けた形から、どんどん色彩や形が繋がっていって、どんどん別の形が生まれて、私はまたそれに影響を受ける。

 そしてその時には、選んだ形の元になった物がどういう意図で作られたものなのか、私がいつ写真に撮ったのか、また、私との距離感なども選ぶ基準の中には反映されていない。しかしそれらは同一平面上につむぎ合わされ、ある方向付けをされる。夜空という、空間とも平面とも言えるものの上で結ばれた星々のように。

 私は、見たままで成立してほしいと考えている。だからこそ私が視覚を用いて認識しているものから形を選び、形を紡いでそれを見ながら描いている。

   その一連の流れを辿っていくと、ではなぜそれを描くのか?という問題点に突き当たる。

   もちろん私が描いているのだが、私は形や色に影響を受け、突き動かされ、描かされているような感覚がある。私が描いていながらも、描かされていると言ってしまうことは自分自身で無責任なことに感じるのだが、現時点ではそのような感覚がある。

 

 

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   どこか(過去?)で見た風景(見たのか見てないのかは分からない)   音楽のような広がり方   から作られた光の広がり方、拡散の仕方

   反射している光?   dazzling

   

 

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